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発達障害により仕事を転々。怒られてばかりで自殺を考える

この記事は30代の男性に書いていただきました。

…………

 29歳で発達障害と診断を受けた男です。私は20歳~30歳までの間に仕事を転々としてきました。理由は仕事の覚えが悪いこと、そして人間関係が上手く築けないためです。結局、居場所が無くなり退職するまでに追い込まれることが多かったです。仕事ができないことと人間関係の悪化は一見関係ないようですが、覚えが悪いことで相手がイライラしてしまうので大いに関連しています。

 これから、今まで私が行なってきた仕事、そして退職に追い込まれるまでに至った経緯について書いていきます。

①スーパーでのレジ打ち
 高校を卒業後、専門学校に入学しましたが、いじられ役からいじめに発展し、中退してしまいました。

 その後、スーパーでレジのアルバイトを始めました。黙々とやる作業は嫌いではなかった為、時にはお客様から「いつもお兄ちゃんありがとう」などと言ってくれる事にやりがいを感じていました。

 しかし、「30%オフ」などの値引きシールを見ないでレジを打ってしまう事がとても多く、その失敗をいつもサービスカウンターの人達が処理してくれていました。

「あの~これ間違えちゃったんですけど・・・どうすれば良いですか?」

「売り上げ訂正してくれる?」

「売り上げ訂正ってこのボタンを押すんでしたっけ?」

「全然違う!売り上げ訂正はもう何回もやってんでしょ?」

 いつも優しかったパートのおばさんでしたが、人が変わったように豹変し、私を睨み付け激怒してきました。

 心の中で「あんな言い方しなくたって良いのに・・・」と思いながら、心は傷付いていました。

 スーパーの職員はそんなに怒る人はいませんでしたが、職場ではほとんど私に話しかけてくれる人はいませんでした。周りはレジを待っている間に世間話をしたり、笑っていたりしていたのに仕事のできない自分が【あいつ仕事できねぇ癖によく喋る】っと思われるのが嫌でなるべく話さないようにしていました。

②倉庫の仕事
 1年が経ち専門学校に通っていた人達は卒業をしていきました。自分も20歳になるから就職を探そうと職業訓練校に通いながらバイトを続け、何とかワードとエクセルの資格を取得する事ができました。

 しかし、正社員の就職は厳しく、何度も書類選考で落ちる自分に嫌気が差しました。事務職を希望していましたが全然相手にされず、再就職したのは倉庫の検品作業でした。人がすぐ辞めてしまう職場であった為、5歳年上の同僚はすごい親切で覚えの悪い自分でも「頼れるのはお前しかいない」っと言ってくれて熱心に仕事を教えてくれました。失敗しても全然訳の分からない事をしたとしても許してくれる優しい人でした。

 ここの職場で2年半ぐらい働きましたが、アルバイトと言うこともあり、周りの友達がボーナスの話を聞くのが羨ましく、自分も正社員を目指そうと職を変える事を決意しました。

 介護だったら求人いっぱいあるし就職しやすいと思っての転職を決意しました。

③介護
 資格を取り、有料老人ホームで就職をしました。介護施設の従業員はイメージと違い優しい・面倒見が良い人・世話好きそんなイメージを持っていましたが、実際は気が強い女性が多く、少しでも何かあればすぐ怒られてしまうのが現状でした。高齢者は嫌いじゃなかったけど、度重なる人間関係に疲れ退社しました。

 この時、気づけば26歳を迎えていました。仕事をしながらハローワークに通いました。接客業の方が長く続いた為、次に紳士服屋の契約社員として働く事を決意しました。

④紳士服の接客
 今までも小売業の接客販売をしていたことはありますが、どちらかと言うとコンビニに近いような接客販売でした。しかし、紳士服屋となると営業マンに近いような感じでした。

 店長はとても厳しい人でハキハキと物事を言います。面接時の印象とは裏腹に入社して一週間で毎日のように怒られました。

「お前成長が遅いよ!」

「みんな優しいから良いけどお前みてぇな奴がいるとイライラしてしょうがねぇぞ?」

「もうやらなくていいよ・・・」

 私があまりにも仕事ができなかった為、もうお客さんにすら話させてもらえませんでした。いわゆる社内ニートです。やらせてもらえる事と言えば、商品の整理・チラシ配り・お客様のお見送りだけでした。

 口で説明してくれるだけで積極的に指導してくれる事はありませんでした。私は口頭で言われた事を何度聞いても理解できず、結局面倒を見てくれたのは一週間ぐらいで後は放置されました。それでも毎日耐えて自分なりに勉強をして必死でついていこうとしました。

 しかし、入社して半年が経つと会社で人件費削減の話が出ました。やっと入れた会社だから続ける事を希望しました。次の日、会社に行くと40代後半の女性社員が一人でタバコを吸っていた為、自分もそこで一緒にタバコを吸わせてもらいました。

「昨日の事(人件費削減)は親に話したの?」

「はい。話しましたよ。色々と考えたんですけど続けたいです」

 そう発言すると・・・その社員は私を威圧しました。

「君には無理だよ!今この状況ですら人が少ないのに更にまた減るのよ?君には相当努力しないと無理なのよ!だってこれから色々なお店にだって行かなくちゃいけないんだよ」

 何も言い返せない自分が惨めで仕方がありませんでした。私はそのお店にいるのがもう嫌になり、希望退社を募る前に自ら退社致しました。

 それから私は働く気力も人と関わるのも嫌になりニート生活を送っていました。ネット回線を繋げば誰かとゲームをやったり話したりそんな時間を過ごしました。

⑤製造業
 貯金も尽きてきて1年後にようやく地元の町工場に就職できました。製造業で今度こそ辞めないようにしよう。割とアットホームな職場で社長と息子二人と奥さんの家族経営の会社で、社員は全部で7人程いました。

 ここでも私は毎日のように怒られていました。

「考えろ!生きてるうちしか考える事ができねぇから!」

 これが口癖でした。別に人間的には悪くない人でしたが仕事に関してはすぐお金の事を言う社長だと気づきました。

 仕事の失敗をするとこんな発言を今までにされてきました。

「アンタは言ってる事が理解できない?」

「去年いた人の方が生産数が高かった」

「アンタに任せられる仕事ないよ」

「新人のY君だったらすぐやってくれるぞ?」

「アンタがいなくなればこの会社の利益が上がる」

「ボーナス返せ」

 覚えている限りではこれぐらいですが、この社長には毎日のように暴言を吐かれていました。最後の一言を言われたとき、私は退社を決意し親と相談しましたが、何度も転職をしている私を知っている父親は反対しました。

「だってせっかく雇ってくれたんだろ?もう次は無いぞ?」

 でも、自分は辞めたくて仕方がありませんでした。数日後、精神科で診断をした結果、うつ病と診断を受けました。会社に全てを告げ、私は自主退社しました。この会社で働いたのは9ヶ月ぐらいでした。

⑥とび職
 就職と休職を何度も繰り返し気がつけば29歳になっていました。もうそろそろ安定した仕事を決めたいと自分でも思っていました。どこの会社でも怒られてばかりでもう働くのが嫌になっていました。失業保険を貰いながら仕事を探しましたが思うような求人が無く、自分でもどうすれば良いのか分からなくなっていました。

 自分の事を心配してくれた父親が親戚の叔父に頼み、就職先の相談をしてくれました。叔父はある時、連絡をくれました。

「仕事探してるみたいだな~何がやりたいんだ?」

「やりたい事ですか?いや・・・特には・・・」

「逆にじゃあ何がやりたくないんだ?」

「それでしたら・・・高い所と危険な事と車の運転が嫌です」

「基本的にここは肉体労働だからさぁ~仕事で危険は付き物だからそこは妥協してくれよ。高い所かぁ~俺も嫌いだけど生活かかってるからやってるよ」

「そうですね・・・」

 この会社は塗装もとび職も何でも揃っている職場でした。自分は肉体労働より事務職の方が希望でしたが紹介されたのは肉体労働でした。前職の経験(介護)もあり、職人系の仕事は向いていないと自分は思っていた為、乗り気がしませんでした。正直、やりたくない仕事でした。

「どうだ?やるか」

「いや、これはちょっと・・・」

「お前そんな事言ってたら仕事なんか見つかんねぇぞ?とりあえず、受けてみろよ」

 嫌々、書類選考に応募しました。運が悪く、書類選考が通過してしまいました。コネもあったから通過したようなものです。

 面接を終えると次の日、叔父から電話がかかってきました。

「車の運転はできるか?」

「はい?俺、車の運転はやるって話はしてないんですが・・・」

「未経験だからさぁ~車の運転ができれば入れる見込みがありそうなんだよ」

「最初に言ったはずなんですけど・・・」

「俺も運転の練習付き合うから何とかならないか?」

「車だけは今まで就職する時に避けて来ました」

「じゃあ止めるか?」

「はい。申し訳ないです・・・」

 このやりとりが済んだ後、父親は真っ先に家に帰ってき、

「お前!紹介された仕事を断ったんだって?」と言いました。

「うん。だって・・・車はやらないって言ったし。面接官だって高い現場にだって行くって話だったし!嫌な仕事は伝えたはずなんだけど」

「親が頭を下げて紹介してくれって頼んだんだからやってくれよ!」

「自分だって高いとこ苦手なんでしょ?じゃあ、自分ができるのか?」

「そんな仕事任されたら断れば良いだろ?」

「そんな事できるわけねぇだろ?そういう仕事がメインだったらどうするの?」

 こんなやり取りが30分以上続きました。父親はとにかく自分が紹介を頼んだ事にプレッシャーを感じていたのかもしれません。

「お母さんをもう悲しませないでくれよ!」

「じゃあ、こうしよう!もしこれで仕事を辞めても文句言わないでね。当然、やる気なんかあるわけないし。前職と同じような結果になるって言うのはもうこっちは分かってるんだよ。また辞める事になるけど良いんだね?」

「一応、やってみてダメだったら考えろ!」

 辞めると分かっている職場を紹介されて働く事になった。仕方が無く採用してくれたような扱いであった。

 入社当初に言われた事を今でもはっきりと覚えている。

「あの人から言われて入れたけど、お前の事なんて認めてないからな」などと言われました。

 4人チームで仕事をする事となった。先輩二人は色々と教えてくれました。自分は必死でメモを取りながら仕事を覚えようとしたが仕事自体に興味がなかったので覚えられませんでした。

 苦手意識とはこういう事なのだろうか?

「お前やる気ねぇだろ?」

 こんな事を何度も言われたことか。実際、やる気がなかったのは事実であったが・・・でも、人の何倍も仕事ができない事に前々から違和感を感じていたのでインターネットで調べると「大人の発達障害」っと言う言葉やADHDなどと出てきた。

「これって・・・結構、当てはまっている部分多いわ・・・」

 これが発達障害の診断を受けるきっかけでした。

 話を戻すと、親方は厳しい人であったが先輩二人からも毎日のように怒られるようになりました。

「お前何回同じ失敗してんだよ?」

「そんなにやる気ねぇなら他に仕事探せよ!」

などと言われ続け、休憩中でも毎日のように「あの時あんな失敗をした」「今日はこういう失敗した」と小言を言われ続けました。

 ある時、先輩がいつも「帰るぞ」っと声をかけてくれていたが、声をかけてくれませんでした。

「今日はあいつに帰るぞ!」って言わないのか?

「だってあいつ・・・つかえねーし」

 隣の部屋から先輩の声が聞こえました。その後、その先輩がやってきて次のように言われました。

「お前さぁ~覚えられないって言うのも限度があんだよ。俺も仕事なんか好きじゃないけどいくらなんでもヒドすぎないか?」

「はい・・・」

 やり方は何となく覚えている。しかし、ポイントを抑えていないので、また同じ失敗をしてしまう。特に多かったのがこれ・・・「やり方を自分のやりやすいように変えてしまう」。こういう注意がひどいぐらい多かったです。

さらに先輩は

 「教えている先輩たちが必死になっているのにお前が何で必死になんねぇんだよ!普通逆だろうがよ~」

「今日、Yさんと話したけどお前の事を言ってたぞ?お前入社した時から全く変わってないね。って言ってた。やっぱりあの人見る目あるんだな」

「俺さぁ~お前が仕事できないからYさんに相談しに行ったんだよ。その結果、Yさんも色々な人を見てきたらしいけど、お前みたいなタイプは雇用が難しいかもって言われた」

「Fさんが言ってたぞ?違う部署の人間が率先してやってくれてるのにお前は動かなかったらしいな?あれじゃ困るつってたぞ」

 こんな感じで私に伝えてきました。

 その中でも特に辛かったのは以下の言葉です。

「どれだけ自分が堕落しているのか気がつけ」

「お前を採用した事を後悔してる」

「親の顔が見てみたいわ」

 もはや、精神状態がおかしくなってしまいました。毎朝、駅のホームから飛び降りて自殺しようかと考えたり、階段からわざと転べば会社に行かなくて済むのかもしれないなどと考え出しました。

 なぜ、俺はここまで仕事ができないのだろう・・・

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診察に行く

 私は専門の発達外来に診察に行き、専門の医師に今までの仕事での事を全て伝えました。

「今、問診表を書いてもらったんだけどこれがちょっと気になるんだよ。片方にかなり偏ってるでしょ?今のとこだと注意欠陥障害(ADD)の可能性があります。まだ正確な診断は出せませんが」

 親方に自分が発達障害の疑いがあるのではないか?と言う相談をしました。あまりそういう事を周りに知られたくない為、人がいない所で。

 しかし、5分後にはその相談内容を先輩やその上の上司にも言ってしまいました。それ以降、叱られ方も「発達障害だなんて自分では思っているかもしれないけどお前はただ単にやる気がねぇだけだ」

「お前が覚えられないのは障害でも何でもないから」など発達障害絡みの事で毎日怒られるようになりました。

 結局、病院の診断結果が正式に出る前に退社する事となりました。

~診断結果~

 病院の待合室で待機していると、医師が直接自分を迎えに来てくれました。

「診断の結果ですが、普通の人のIQがだいたい100ぐらいなんですが、あなたの場合IQが70ぐらいなんですよ。知的障害かどうかの境です。後、10年遅ければ普通教育にも入れたかどうか?ってとこです」

「はい・・・?」

「この状況でしたら障害者枠の方で働いた方が良いかもしれません。最初は抵抗があるかもしれませんが・・・」

「仕事でのトラブルはやっぱりそういう関係だったんでしょうか?」

「はい。しかし・・・よくこれでここまでやってこれたかとは思います。親御さんにも理解して頂きたいのですが・・・」

「あの~先生!病名はなんでしょうか?」

「広汎性発達障害か軽度の知的障害にどちらかと言うと近い感じです」

 この診断の結果が出て私は10年間悩んでいた事にようやく終止符が打てた気がした。

 口頭で言われた指示が良く分からないことなど全ての原因が分かった気がしました。

 現在は就労移行支援に通い障害者枠で再就職を目指しています。

[参考記事]
「ADHDの新入社員が入社して来たら、どんな指導をすべきか」

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Comments / Trackbacks

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  1. 私は7歳でアスペルガーと診断されました。この記事を読んでいて自分と重なるところもあって読んでいてとても辛い部分がありました。ですが、貴方はいろいろ仕事を変えることができて良いとも思いました。

    私もよく叱責されていて、転職したいと思いますが、不採用続きで、転職経験なしで新卒で採用された会社に現在まで7年勤めています。

    今就労移行支援施設に行ってるんですね。貴方が何年も勤めていける仕事に就けることを信じています。

    • ありがとうございます。
      人生、辛いことばかりですが、これも運命でしょうか。

      あなた様は1つの会社にずっとお勤めできるので、すごく強い精神をお持ちです。
      お互いに頑張りましょうね。

  2. 私もまったく同じ経緯で。
    20歳過ぎてからIQが平均以下の発達と診断を受けました。
    何をやるにもうまくいかなくて、周りからは責められて。自己肯定感が皆無に。
    記事の方は、果敢に色んな職に挑戦していて素晴らしいです。
    私は周りの目が何時も怖くて、多くの事への挑戦を避けてきてしまいました。
    今は記事の方と同じく、就労支援に通い、自立への道を探っています。
    同じように、悩みながらも必死に生きている方がいるのかと知ると、勇気になります。

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