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知的障害の妹の学生時代とその後。夜の仕事をするように

この記事は30代の女性に書いていただきました。

………

 今回は現在28歳の知的障害の妹と過ごした学生時代の体験と現在の状況について書いていきたいと思います。

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妹の診断と学校での様子

 妹の症状は多様であり、医師の診断も難航しておりました。ADHDではないかという疑いはありましたが、1つ明確だったのは知能指数の遅れです。小学4〜5年生でも3〜4歳の知能指数しか持っていないという話でした。

 成長するに連れて追いついてくるかもしれないという話でしたので、親と学校側の話し合いの結果、妹は普通学級で授業を受けることになりました。

 特別クラスはいわゆる身体障害が主流であり、少なくとも会話ができる妹には友達との関わりが必要だろうという判断で普通クラスに。

 ですが、小学3年生でも時計は読めず、漢字のテストでは、「石という漢字を書きなさい」という設問に絵で石を書いたり、と全く授業にはついていっている様子はありませんでした。

 何度となく親にお願いされて、妹の勉強をみましたが、集中力はなく全く理解できません。挙げ句の果てに癇癪を起こす始末でした。いまとなっては知能指数が低いわりに頑張っていたと思います。

周りの友達からの扱われ方と姉の立場

 会話ができ、目に見える障害はないので友達の理解を得るのも大変でした。妹の同級生が大人数で家に押しかけ、苦情を言ってくることもありました。

 私と妹とは一学年しか違いませんので、妹は気軽に私の教室にきますし、周りのお友達も何かあると私に言いにくることも多かったです。

 妹の女子のお友達には、親が丁寧に話すうちに、少しずつ理解が広がっていきました。男子からはいじめのようなものはありましたが、障害のあるお陰かそこまで気にしていない様子でした。

 姉としては、恥ずかしいという気持ちの一方で、守ってあげなきゃ!という意識も強くあり、複雑でした。

家での様子と親

 妹は家ではもっぱら妄想にふけっていました。妄想にふけるあまりに現実の危険性が分からなくなるのか、7階のベランダの手すりの反対側にぶら下がっていたこともあります。

 また、家では父親が教育熱心でしたので、カッとして暴力を振るうこともあり、妹が一番辛くあたられたのではないかと思います。

 その噂を耳にしたのか、当時、親戚で子供に恵まれなかった夫婦が妹を養子に迎えて育てたいと申込んできましたが、母親は自分の子だと言ってつっかえしたそうです。

 しかし、その夫婦に任せたほうが妹は自由に育てられたのではないか、家での居場所を貰えて、父親に怒られることもなくのびのびと育てられたのではないかと、手元に置いといたのは自分のエゴだったかもしれないと、母は後悔をしていました。

妹の進路

 妹は3人姉妹の真ん中ですが、妹以外の私たちには大学に行けという親からの期待はありましたが、妹にはありませんでした。

 専門学校に行かせてあげる余裕はないから、高校を卒業したら就職するようにと言われていました。妹は動物が大好きだったので、その時に無理矢理にでもトリマーや何かしらの専門学校に通わせて貰えていれば状況は変わったかもしれません。

 妹は親の反対を押し切り、県外の住み込みの仲居さんとなりました。とりあえずなんでもいいから家を出たかったそうです。結局、仲居さんは長く続きませんでした。気づくと東京に出たっきり、音信不通となりました。警察に捜索依頼をだし、発見されたのは東京の夜の街でした。いわるゆ、夜の仕事をしていました。

親の後悔

 後悔したところでどうもなりませんが、親は妹を愛していました。しかし、そのつもりはなくとも毒親になっていたのかもしれません。

 妹は社会に出てから、荒れに荒れたので、決して実家から出すべきではなかった、と親は後悔していました。家にいても遅かれ早かれ同じ結果になったのではないかと私は思います。

 今から思うとですが、やりたいことをもっとやらせてあげたらよかったのに、と思うこともあります。私自身、今でもふと妹への申し訳なさを感じる時があります。

 最近になって妹は夜の仕事を辞め、実家の近くへと引っ越しました。一からやり直すと工場で働き始めましたが続かず、パチンコ屋で働き始めています。

 自分の過去の行ないを省みる発言も多く、成長してきているように思います。今後は少しずつサポートしていきたいと思っていますが、具体的になにができるかわかりません。

[参考記事]
「娘の発達障害と知的障害を受容するまでの過程」

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