ADHDの診断が下りるまで30年以上もかかってしまった女性へインタビューをさせていただきました。
この記事は「ADHDの診断が下りるまで30年以上。きっかけは栗原類くん」の続きです。
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ADHDであったため、幼少期より友人関係や学業面、仕事などで悩みを抱えてきたMさん。仕事中にうつ病を発症し、ほぼ引きこもりの生活を10年近く続けるまでに精神を病んでしまったのです。
そんなMさんがADHDを自覚したきっかけは、偶然みていたテレビ番組でした。芸能人(栗原類)のカミングアウトによってADHDの認知度が高まり、メディアでも紹介されるようになったからです。その時の衝撃はまさに天変地異のようだったとMさんは言います。
Mさんは自分がADHDであることを周囲に隠しません。むしろ積極的にカミングアウトをしています。そんなMさんの内面にある思いにも触れながら、ADHDであるという確定診断を得た時の心境について語っていただきました。
―数十年の紆余曲折を経て、やっとADHDの専門医の診断を受けることになったんだよね。その時の率直な気持ちはどんなだった?
「原因はコレか!っていう安堵感と、あとは切ない感じ。」
「まずは、『やったー!!!』かな。『わたしの人間性に問題があったんじゃなかったんだ!原因は脳にあったんだから仕方ないじゃん。原因が分かったってことは対処できるはず!薬もあるし、これから何とかなるかも!』ってのが一番最初に沸いてきた感情。」
―安堵感は理解できるけど、切ないっていうのは?
「なんていうか、もっと早くに分かっていたら、私の人生は全く違っていたんだろうなって思ったのね。そりゃあ、今までに経験したことは無駄じゃないんだろうけど… でも、私のこれまでの人生って何だったんだろうって…」
―一種の虚無感みたいなもの?
「うん虚無感かも。人生で一番楽しい時期を苦しんで終わらせてしまったことが悲しかったり、残念だったり。でも過去は変えられないから、今更どうしようもないっていう、感情のやり場のなさが切なかった。」
―そういう気持ちはすごく分かる。誰のせいでもないし、今更言ったところでどうしようもない。でも、あったかもしれないキラキラした日々に対する憧れとか、それはもうどうやっても手に入らないんだっていう無力感とか。感情のもって行き場がない分、余計に苦しくなるよね。
「あとは、なんでもっと早く(テレビで)放送しないんだ!っていう怒りみたいなのもあった。あと10年早く知って診断を受けていたら人生違っていたんじゃないのかって。」
―怒りと虚無感か。結構しんどいね。
「まあねえ。特に怒りって、自分の周りの人に対しても影響を与えるから。周囲との関係もこじれたりしたこともあった。で、ある日ふと鏡を見たのね。そしたらそこには別人がいたの。自分でも怖いって感じるくらいの表情の人間。例えるなら『般若』?すごい鬼の形相をしている自分がいて、自分でもびっくりした。今の自分はこんなに醜い状態なんだって自覚して怖くなった。それがきっかけで、いつの間にか自然と怒りが消えていったね。」
―ちょっと前向きになってきたターニングポイントがそれ?
「それも一つかもしれないけど。大きなきっかけは叔母だと思う。」
―親ではなくて?
「うちの親はさ、時代的にも努力の人だったのね。能力が低くても努力で何とかなるって考えだったし、実際に親はそれで成功してきてるから。当然私にもそれを求めるわけよ。」
―でもMさんの場合は努力してどうこうとは少しベクトルが違うよね?
「そうなんだよ。でも親はできる人だったから、どうしてできないのかがわからないのよ。プロゴルファーがレッスンプロになれないのと同じだと思う。私がどうしてできないのかが根本的に理解できないんだよね。」
―そういうのって伝えた?
「実はね、最近まで親子喧嘩が出来なかったのね。びっくりでしょ。親が怖いとかじゃなくて、自分の気持ちを言葉として発信する方法がわからなかったんだよ。」
―?? 自分の感情自体が把握できないわけではなくて?
「ワーキングメモリの不足ってのが原因かな?インプットとアウトプットを同時に処理できないんだよね。」
―まさにメモリ不足だ。
「本当にそう。メモリを増設したいよ、切実に(笑)。自分の感情を整理してまとめているうちに、相手がどんどんしゃべってくるから、感情を言葉としてまとめるのが追い付かないのよ。どうやって同時進行していったらいいのかわからなかった。処理のプロセスがわからないのが人間に対する苦手意識のもとになったのかも。」
―そういう親だと家にいるの辛くない?
「うん。当時は本当に家での身の置き場がなかった。でもとりあえずは働かなくても食べていける環境だったから。そこだけは感謝だね。そういう環境じゃなかったら、もしかしたら今は生きていないかもしれないし。」
―そんな時に居場所をくれたのが叔母さん?
「そう。叔母は小さい頃から面倒見てくれたから、その時の私の状態をすごく心配してくれて。とりあえず私はパソコンができたから、簡単な事務仕事(叔母の会社で)をさせてくれるようになったのね。その時にいろいろと話も聞いてくれたし。それで徐々に自分を取り戻していったんだと思う。」
―叔母さんのところがカウンセリングと作業所を兼ねてたんだ。
「だね。社会復帰のとっかかりになってくれたから、叔母には本当に感謝してる。」
―で、今に至るの?
「それがそうでもなくてさ。確かに叔母のおかげで心は回復したんだよ。でも問題があってね。叔母の仕事って、なんのプレッシャーもない環境なのね。でも仕事のミスは一向になくならないのよ。何回気を付けてもどこか絶対間違ってる。叔母も、最初はADHDに対して半信半疑だったんだけど、リアルな私を見て、障害を持っていることを認めてくれたのね。誤解されやすいこととか、わざとやっているわけではないこととか。」
―人から承認してもらえたことが自信につながった?
「うん。私は私でよかったんだって心から思えた。それまでは自分が悪いって思いこんでいたけど、他者(叔母)から『あなた自身が悪いんじゃない。』ってハッキリ言ってもらえたことでずいぶん救われた。」
―MさんはADHDの不注意優勢型と診断を受けているからね。それはもう生まれつき体が弱いのと同じで、本人でもどうしようもない。
「そう。だから、ミスしたり上手くいかないのは仕方ないんだって悟った。それで今は、最初からカミングアウトすることに決めたの。」
―それはどうして?
「時々さ、自分は空気読めてないんじゃないのかって不安になるのよ。あの一言はマズかったんじゃないかって。夜に一人反省会して落ち込んだりとか。」
―一人反省会はやるね。布団の中で一人モンモンとして寝返りを繰り返したり。その気持ちはよくわかる。
「だから最初にカミングアウトしとく。『私はこういう人間だから変なことするけど、悪気は一切ないです。』って知ってもらうため。失敗して初めて『これがダメだった』って理解することばっかりだからさ。」
―先に宣言しておくことで、誤解を防げるからね。
「ADHDの言動ってさ、周りから見るとスゴイ嫌な奴とか変な奴だから。でもわざとじゃないことを知ってほしくて。」
―なるほど。宣言はすごく有効なことだと思う。原因がわかると誤解がなくなるし、相手も、「そういう障害なんだ」と許すことが出来る。叔母さんのおかげでADHDの攻略法がつかめてきた?
「本当に叔母には救われたよね。『私は私でいい。仕方ない。』って自分に対する肯定的な感情を持つことが出来るようになったから。だから、もしかしたら私でもできることがあるかもしれないって考えるようになった。」
―で、資格の勉強を始めたわけだ。
「うん。ADHDだと職業選択の幅がすごく狭いんだよ。性格的には向いていたとしても、不注意とか衝動性が原因でダメになるケースが多いから。でも、そんな自分でも猫の手くらいにはなれるかなって。」
Mさんとの会話は、本当にテンポよく進みました。時々お互いに横道にそれながら、終始笑いの絶えない充実した時であったのが強く印象に残っています。それはMさん本来の明るくウィットに富んだ性格と、頭の回転の速さのせいなのでしょう。彼女との会話を録音したデータを再生しながらこの文章を書いていますが、本当に私たちはゲラゲラと笑ってばかりでした。
今のMさんからは「死にたいと思っていた」時期があったことは全く想像できません。彼女にとってのキーパーソンとなったのは叔母さんなのでしょうが、今の彼女があるのは、元々の彼女自身の人間性によるものなのだろうと強く感じさせられました。ADHDであるという自分を肯定的に受け入れて進んでいくMさんの本質は、しなやかな対応力を兼ね備えた芯の強さにあるのだと思います。
最後に、彼女からのメッセージです。
「私たちADHDを抱える人間は、決して悪意や敵意をもって接しているわけではありません。ただ、懸命に生きている結果が「そのように見えてしまう」だけなのです。それでも私は誰かの役に立ちたいと思います。
周りの人と同じになるには時間がかかるだろうし、もしかしたら同じレベルに到達することはできないかもしれません。ですが私は『私のままの私』を受け入れることにしました。それは、努力を放棄するという意味では決してありません。
私は自分がADHDであることが分かったとき、もっと活発に生きてくればよかったなと思いました。身体的にも、精神的にも。過去を変えることはできないけれど、明日の積み重ねが歴史を作っていきます。
だから、もしこの文章を読んでいる人で、自分が苦しくなっている人がいたら、今少しだけ自分のやりたいことをやってみてください。『今』を『少し』を繰り返していくと、それが過去になるのですから。」