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ADHDの診断が下りるまで30年以上。きっかけは栗原類くん

 

 ADHDの診断が下りるまで30年以上もかかってしまった女性へインタビューをさせていただきました。診断を受けるきっかけを作ってくれたのは芸能人の栗原類くんです。

……

 「発達障害が判明したきっかけは栗原類くん」という人は結構いるのではないかと思います。栗原類さんはADHDの中でも不注意性が強く出るタイプのADD(注意欠陥障害)です。

 Mさんは30代の女性ですが、彼女もその中の一人です。とても知的でユーモアのセンスもなかなか。気遣い上手な一面もあり、一緒にいると自然とこちらも笑顔になってしまいます。ジョークに対する切り返しもうまく、頭の回転の早い人だというのが私の印象でした。

 そんな彼女ですが、ADHDと診断され、現在服薬治療を受けています。診断上は、不注意優勢タイプのADHDで、特にワーキングメモリ分野の値が平均を下回っています。

 Mさんは県下でも有数の進学校を卒業後、大学へ進学。その後、一般企業に就職します。しかし、どれだけ注意しても繰り返してしまう単純ミスや人間関係などに悩み、徐々に精神的なバランスを崩していってしまいます。そして退職。

 その後はお小遣い程度のアルバイトをたまに行いながらほぼ引きこもりの生活へと突入します。当時の診断名は「うつ病」。まだ発達障害という概念が日本に社会に浸透していない時代のことでした。

 現在Mさんはパートタイマーとしてクリーニング店で働いています。その傍ら、経済的自立のための資格取得に向けて独学で勉強もしている努力家です。

 そんなMさんに、自分が発達障害であることに気付いたきっかけについて伺いました。

―自分の中では、ずっと昔から「違和感」のようなものはあったの?

「うん。もう幼少の時から基本的にはずっと一人。近所に年の近い子もいなかったし。引っ越しとか入院とかで、友達を作るタイミングを逃したってのもあるけど、小学校に入るころには同い年の子とどう接していいか分からなかったのね。」

―ああ、周りが大人ばっかりの環境だと、どうしても本人も大人びてくるしね。クラスメイトが幼稚に見えたりする感じ?

「そうそう。斜に構えてるみたいな(笑)自分とクラスメイトはあまりにも違うし、もうすでにグループも出来上がってるから、余計に輪に入っていけなかった。そしたらいつの間にか自分より幼いと思っていた子たちはどんどん社会性を身につけていくわけ。でも私は基本的に一人だから、全然コミュ力とかが育っていかないのね。」

―知能の高い子あるあるだね。気づいたら周りに追い抜かれてく。でもそれを素直に認められない自分?

「うん。優しい子なんかは、一緒にいてくれたりするんだけど、それは対等な関係じゃないのが分かるの。『友達でいてもらってる』感。それがいたたまれなくてね。余計に人づきあいに対して距離感を持つよね。その時に感じた劣等感のようなものが高校くらいまで続くのよ。」

―小さいときの人間関係のつまずきって尾を引くからね。上手く距離感をつかめないから人に対する苦手意識が大きくなるし。上だったはずの自分がいつの間にか下になっている劣等感も相当だよね。自分は自分が思う正しいことをしているつもりでも、どこかズレてたり、暗に否定されたりね。高校までは勉強面は特に問題なし?

「それがそうでもない。勉強自体ができないわけではなかったんだと思うけど、とにかく授業が理解できなかった。例えば、先生の話を聞きながらノートをとることが出来ないのね。話を聞いてるとノートが書けない、ノートを書いていると先生の話は耳に入らなくて気付くと先に進んでる。おまけに、説明が長くてアチコチ逸れながら進んでいくから、最終的に何が目的なのか分からなくなるわけ。」

―確かに、マルチタスクはADHDが苦手とする部分でもあるから。でも大学まで進んだよね。勉強に目覚めたのはどうやって?

「母親がわりと教育ママだったから、塾に行くことになったんだけど、それが良かったみたい。塾は教え方の筋道がかなり短縮されて明確化されてるじゃない。最短ルートで正解にたどり着くための方法を教える場所だから。授業で分からない内容も、塾ではすんなり理解できるのね。余計なことを教えないから。ひたすら正解を求めればいいってのが私にはわかりやすかった。」

―「何のためにこれをするのか」っていうゴールと「ゴールにたどり着くための合理的なルート」が見えていれば、理解が早いってことかな?

「そんな感じ。塾の授業では、『AのためにBが必要。Bを理解するためにやっているのがC』っていう明確な説明がある。だからどうしてCを勉強しなければいけないのかがわかるじゃない。でも学校では前触れなしにCから入る。それだと『Cには何の意味があるのか分からなくて、そこからつまずくパターン。」

―確かにそれは分かる。Aまでたどり着いて初めて、BもCも意義が見いだせるからね。やってる最中はBとかCがどこで活きるのかがボカされてるのが学校の授業だよね。

「トップダウン式の教え方のほうが理解しやすい。塾ではひたすら問題を解く訓練をするから、繰り返すうちに自分の頭の中で『勉強のやり方』が確立されていくのが分かった。その時初めて、前頭葉が働いているって感じられたのよ(笑)だから塾に行くまでは学校はとにかく苦痛だったけど、通いだしてからは成績が一気に伸びた。」

―いろんな意味で学校というスタイルが性に合ってなかったんだね。塾に行ったことが勉強のターニングポイントだけど、人間関係ではどう?今は友達いるよね?なにかきっかけがあった?

「大学進学がきっかけかな。誰も自分を知ってる人がいない環境に入ったのもあるし、大学って無理やり誰かと仲良くしなくても問題ないじゃない?友達作りを強制させられないし、一人でいても違和感がない。授業に出てさえいれば周りから浮くこともない。だからそういう空気は窮屈ではなかった。こういう環境なら友達が作れるかもしれないって思ったわけ。実際、それまでも友達自体には憧れはあったし。」

―素の自分でもいいや、って?

「うん。開き直り。そうすると、自分と合う人とだけで人間関係が作れるようになったから。そこで初めて『友達』って概念が理解できたんだと思う。」

―じゃあそこで人間関係のトラウマはだいぶ解消された?

「う~ん。でも世の平均から見たら相当下だよ。人それぞれの適度な距離感みたいのは分からないまま。そんな状態で社会に出ることになったから大変だよね。」

―確かに。しかも会社だと、友達とはまた違った距離感とか付き合い方が求められるからね。

「そう。だから常に緊張してるわけ。ミスが許されない仕事(※彼女はプログラマーSEとして就職)なのに加えて、どうやって会社の人と付き合っていけばいいのか分からないっていう。」

―なんか、すごい四面楚歌。閉塞感しかない。それは誰でも病むね。

「だから、とにかくすべてでミスしないようにってとにかく注意するわけ。仕事でも人間関係でも。メモとかしっかりとるし、マニュアル見ながら作業するし。でも絶対にどこか間違えるの。何度も見直ししたはずなのに、必ず。」

―緊張してるから余計にミスするのかな?

「それもあると思う。ミスしないようにってとにかく焦るし。でも、ひとつできるようになっても、今度はまた別のところでミスをするの。自分でもどうしてなのか分からなかった。」

―「こんなに注意しているはずなのに、どうして自分ばかりがミスするの?」って自分で自分も追い込むし、周りからも呆れられてるんじゃないかってネガティブ妄想がはじまらない?

「まさに。それでもう自分がおかしくなっていたんだと思う。今思えば、ADHDの注意力散漫が原因だってわかるけど、当時はそんなこと誰も知らなかったしね。で、ある日、もう無理だって。」

―それで退職になったわけね。ADHDが原因で精神疾患を発症する人は多いけど、まさにその王道を行ったわけだ。

「それからは精神科にかかって、うつ病だって診断されたんだけど、自分では違和感があったのね。たしかに鬱の症状もあったけど、治療しても何も改善されないし。うつ病とはなんか違う気がずっとしてた。」

―当時(※2000年代初頭)は発達障害ってまだメジャーじゃなかったから。診断には相当専門的知識が必要だしね。で、ADHDの存在を知ったのはどのタイミング?

「本当にごく最近だよ。モデルの栗原類くんがカミングアウトしたのがきっかけなのかな?テレビで発達障害の特集番組がやっていて。基本的にずっと家に引きこもっていたから、たまたまついてたテレビで偶然見たのね。あれはまさに神の導きだね。」

―ほんとに最近なのね。どんな内容?

「途中からだから正確には分からないけど、ADHDの特徴とかを紹介していて、『これは私じゃん!!!』てびっくりしたよ。」

―そこで偶然ADHDという言葉と出会ったわけね。

「そう。引きこもりで時間は十分にあったから、ネットとか図書館とかでひたすらADHDについて調べまくった。ADHDを知れば知るほど、今までの苦労の原因はコレだっていう確信が強くなっていったのね。」

―その時の感じって覚えてる?言葉にするとどんな感じ?

「その時の衝撃は、まさに天変地異だよね。ヘレンケラーのウォーター!みたいな。」
※視覚と聴覚に障害があるヘレンケラーが始めて発した言葉が「ウォーター」だと言われています。

―なるほど、その時の衝撃のすごさは分かったよ(笑)。で、当時かかっていた医者には伝えた?

「うん。本とか印刷したHPを持って、『私コレなんじゃないか?検査してくれないか?』って。でも主治医は『考えすぎ。こんなの誰でも当てはまる。あなたは鬱です。検査も必要ない。』って取り付く島もなし。」

―あー。ひどいね。で、それからどうした?

「当時の私は水を得た魚状態だったから、ADHDを見てくれる医者をひたすら探して。」

―ちょうど発達障害が認知されだしたころだよね。しかも子供が対象なのがほとんどでしょ?病院探しは難航した?

「そうなんだよ。自力で病院探しても、初診は何か月も先でさ。でもやっと検査出来て、やっぱりビンゴ。」

―発達障害って、いわば先天的なものじゃん。ADHDにたどり着くまでにかかったのは30年以上だよね。長かったね。

「本当に。私のこれまでの人生って何だったんだろうって感じ。しかも社会から離れてた私の10年は何だったの?って。」

―その感じはよく分かる。時間返してほしいよね。本当にお疲れさまでした。よく頑張って生きてきてくれたなって思う。で、次は、診断がついた時の気持ちをもう少し詳しく教えてもらいたいんだけどいいかな?

「もちろん。私はずっと自分の存在意義みたいなのが分からなくて。こんな私の話でも、これを読んでくれた誰かの役に立つんだったら、こんなうれしいことはないよ。」

 幼少期から感じていた違和感の正体が分かるまでに30年以上もの長い年月を要したMさん。その期間に失ったものも決して少なくはありません。きっかけは全くの偶然。しかし、栗原類くんがカミングアウトしてくれたおかげで、Mさんも自分の正体に気が付くことが出来たのです。

 次回は、診断が下ったときのMさんの心境についてお話を伺います。

続きは「ADHDだと診断された時の気持ちは?虚無感か安堵感か」

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