この記事は20代の男性に書いていただきました。
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私がADHDと診断されたのは小学生一年生の時でした。なぜそんなに早く診断されたかというと、元々母親が精神障害をもっており、当時の私は学校の授業中、教室を抜け出して砂鉄を集めたりなどと、周りとは違った行動をとっていたため、一度検査を受けさせてみようということで検査を受け、発達障害と診断されました。
今思えば、そんなに早くわかっていたのならその段階で療育をうけさせてほしかったと思いますが、親の都合により児童養護施設と家との往復で、そんな余裕はありませんでした。ですので、授業も特別支援学級ではなく、通常学級で受けていました。
当時の私にはまだ発達障害とは何なのかを深く理解できず、周りとは違う、特別なすごい存在なんだと思っていました。薬を飲んでいることや障害であることを自慢していました。
そのため、変に自信がつき、中学もこんな感じで過ごせるんだと確信していました。
不登校になった中学一年生の時と、初めて受けた療育
中学校にあがるとき、新しい養護施設に入り、全く知らない地域の中学校に入学しました。初めは小学校とほとんど変わらないだろと高をくくっていました。
しかし、個を主張しすぎると周りがどんどん離れていくということを、私は初めて知りました。小学校までは個を主張してもそれが個性だと認識されていましたが、中学校からは集団からはみ出るものは異端児とされるということを痛感しました。この頃から不登校気味になり、中学二年生からは別の施設で生活する事になりました。
その施設は今までいた児童養護施設とは違うスタンスを持った、情緒障害児短期療養施設という形態を持った施設でした。私にとっては初めての療育であり、ここで信頼のできる先生とも出会うことができました。
この施設では、生活環境をあえて狭くし、一つの社会を作り、どのようにしたら社会が認めてくれるかを子供自身に考えさせる療育を行っていました。私自身もここでいろいろ学ぶことができ、外に出てもやっていけるという自信を取り戻すことができ、高校に進学する事もできました。中学校を卒業すると同時に、その施設も卒業して、中学一年生の時にいた養護施設に戻りました。
軌道に乗り始めた高校生活と落とし穴
高校に進学し、部活に励むことで自分自身の価値を見い出し、充実感のある高校生活を送っていました。しかし、それに慢心してしまったのか、高校二年生のころ、人間関係で問題を起こしてしまいました。
それにより、自分が積み上げてきた自信が揺らぎ始め、学校での居場所であった部活でも問題を起こしてしまい、完全に学校での居場所がなくなってしまった時がありました。
正直、部活で問題を起こしてしまったときは、退学処分になってもいい、むしろそうしてほしいと思っていましたが、学校からは二週間の停学処分だけで済みました。正直なぜ退学にしてくれなかったのか、居場所がなくなってしまったのにどうやって学校生活を送ればいいのか、全くわかりませんでした。
この時期に躁鬱障害とも診断され、もうどうにでもなれ、全部発達障害が悪いと投げ出してしまいそうになってしまいました。そのとき、支えてくれたのは養護施設の担当の職員でした。そのときにいわれた言葉で一番印象に残っている言葉があります。
「正直ここまでくると、つらい、投げ出したくなる、何かのせいにしたくなる。だがな、一人で全部背負う必要もないんだ。俺たちも腹くくって一緒に背負ってやるから、やれるとこまでやってみないか?退学にならなかったのには意味があるんだから、やるだけやってダメだったらまた考えよう。そのときも一緒にどうするか考えてやるからさ。一緒に最後まであがいてみなようじゃないか。」
この言葉で、どうすればいいのか全くわからなかったのが、ああ、精一杯あがけばいいんだ、それでダメでもそれですべてが終わるわけではないんだと思えるようになりました。この言葉を言ってくれた職員とは、高校を卒業するまでずっと二人三脚で付き合ってもらいました。
私は、発達障害の性質では苦労しましたが、今思い返すと人にはとても恵まれていたと思います。ここには書ききれませんでしたが、小学校や中学校、高校での教員のサポートや、中学の時から今まで付き合ってくれている医者など、挙げればきりがありません。誰かひとりでも肩を支えてくれる人がいれば、それが人に恵まれているということだと思います。