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娘の発達障害と知的障害を受容するまでの過程

この記事は発達障害と知的障害の娘さんを育てている30代の女性に書いていただきました。

……

 娘の発達障害を受容するまでにはいくつかの辛い過程がありました。それを超えて初めて子供の発達障害を受け入れることができました。どうやって、受容していったのか、その過程を書いていきます。

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受容過程①発達相談へ行って―臨床心理士の言葉

 言語や社会性に大きな遅れがあった娘には、1歳半検診の頃から市から経過観察の電話がかかってきてました。3歳を目前にした頃の電話で「まだ話せなくて」「こちらの言ってることも理解してないようで」「かんしゃくがひどくて暴れて」と報告すると、「発達相談を受けてみませんか」と言われました。娘の状態に大きな違和感を持ってた私は、相談を受けに行くことに決めました。

 発達相談しに行ったときの臨床心理士が、とてもきつい言葉を投げかける人でした。ショックが強烈すぎてあまり記憶がないのですが、頭を殴られたような言葉は「このままじゃ一生しゃべりませんよ」です。私が「個性と発達障害の境目はどこなのでしょうか」と聞いたら、「この子のは個性どころじゃない、自閉症の特徴が大きく出ている、どうしてここまで放っておいたのですか?」とまで言われました。同じ質問をしたとき、「うーん、そこは難しいのですよね、明確な境目っていうのはないんです」と答えた保健師さんの方が誠実のような気がしました。

 その臨床心理士から案内された療育教室のパンフをもらって帰宅するとき、涙がぼろぼろと出てきたのを良く覚えています。我が子が何かおかしいと思いながらも、いざ発達障害と言われると我が子を否定された気がして、悲しくて悔しくて何とも言えない気持ちでした。たくさんたくさん良いところもあるのに・・・と。

 帰宅してから夫に説明しながらまた泣くと、夫はなんと市にクレームの電話を入れました。夫も突然の発達障害を断定する言葉に怒りを感じてしまったのだと思います。「(医師でもないのに)断定する言い方はやめて欲しい」「相談しに行ったのにそんな突き放す言い方はどうなんだ」といったことを伝えたと言ってました。そんなことをして欲しかったわけじゃないのにと夫に対しても腹が立って、夫婦間もギスギスしていきました。

受容過程②療育先へ電話―きっかけは特別支援学校の教師

 その後、紹介された療育教室へ電話をしてみようと思えるまでは、時間がかかりました。色々と検索している中で、たまたまネット上で特別支援学校の教師をしている方と話す機会があり、「聞いてるとその傾向はありそうだね」「療育は全然嫌なところじゃないよ」「本人も今のままじゃつらいんだろうから、行ってみたらいいと思う」とアドバイスをくれ、そっか自分がつらいとかどう思うとかいうより、本人の気持ちをまず考えなきゃいけないっていう当たり前のことを思い出し、ようやく療育の見学をいくことにしました。

 幾つか見学して、母子通園で1対1で言葉がけをする児童発達支援の療育へ行くことに決めました。相談支援の方が良く話を聞いてくれ、ああ初めて娘のことをちゃんと理解しようとしてくれる人に出会えた!と感動しました。周りに言えば「甘やかしすぎなんじゃない?」「ちゃんと話しかけてる?」といった育児が悪いという言葉か、臨床心理士みたいなダメなところを見つけ出して否定してくる冷たい言葉。ママ友とは話が合わな過ぎて話すことすら避けてました。初めて、娘の苦手なところ、得意なところ含めて、娘の全体を見て理解してくれる人に出会えた気がしました。「こういうプランで〇〇ちゃんを支援していきましょう」と言ってくれて、ああ娘のことを同じ目線で話ができる味方ができた…と感じました。

 療育教室とは別に、療育センターでの受診の予約をしましたが、半年待ちで、先に療育を開始することになりました。そこで出会う色んな子、そしてその親御さんたち。ごく普通に見える子もいれば、明らかに知的な遅れや身体障害がある子もいました。私自身余りコミュニケーションが上手くなく友達を作りやすい方ではありませんが、療育のお母さんたちとは自然と話ができたのは、とにかく話題が尽きないからです。就園のこと、睡眠のこと、トイレトレーニングのこと、言葉のこと、歯磨きやシャンプーの悩み、相談したいこととか聞いてみたいことは山ほどお互いにあります。激しい共感や参考になる情報交換や、たわいもない愚痴の言い合いでも、それまでのどんよりした気持ちに光が刺してきたような気がして、私自身の居場所も出来たような気がしました。

受容過程③療育センターでの診断―思わぬ診断名に再びショック

 徐々に娘の障害を受容する気持ちが芽生えてきましたが、療育センターでの診断ではまた大きなショックを受けることになります。「自閉症」と言われる覚悟は持って診察室に入りましたが、「精神遅滞(知的障害)」が主診断名だったからです(後に自閉症スペクトラム障害、という診断も付きますが)。私の中で自閉症と知的障害は全然違うもので、知的障害という響きが受け入れがたいものでした。療育センターからの帰り道もまた、泣きながら車を運転していました。

 今考えてみれば、知的障害だろうと自閉症だろうと、娘に変わりはないのであって、ショックを受ける必要はなかったと思えます。どう考えても言葉の理解力がなかったので、知的障害と言われて当たり前だし、どうしてこれまで自分が知的障害を疑っていなかったのかも、どうしてそんなに受け入れがたかったのかも不思議。おそらく私の中に、知的障害に対しての強い偏見があって「娘はそんなはずはない」と思いたかったのだと思います。

受容過程④受容していけたのは周りの支えがあってこそ

 ショックを受けてから、いつ娘の知的障害を受容できたかというと、本当に少しずつ少しずつでした。関連する本を読んで知識を増やしたり、周りのお母さんと話したり、療育の先生と話したり…その積み重ねとしか言えません。

 私は恵まれていて、主治医の先生はとても話しやすくて娘の良い面も見つけてくれ、療育のスタッフの方や周りのお母さんたちにも恵まれて良い関係を築けました。だから、「この場所を与えてくれたのは娘のおかげでもある」と思えた部分もあります。娘の障害がなければ、絶対に出会えなかった人たちですから。

 我が子に発達障害や知的障害があるということは、ほとんどの親にとってやはりショックで、受容しにくいものだと思います。身体障害なら嫌でも受け入れざるを得ない部分があっても、発達障害や知的障害については、誰かに指摘されれば、不快に思ったり我が子を否定されたような気になってしまったりする場合も多いと思います。

 受容するにはどれだけ信頼できる人に出会えるか、心を開いて話すことができるかなのかなと思います。

今振り返ると―早めに診断されて良かった

 今でこそ、最初に自閉症という言葉を口にした臨床心理士は間違っていなかったし、むしろいち早く療育を始めた方が娘にとって良いという気持ちで言ってくれたと分かります。言い方は今考えてもきつかったですが…。当時はただただ悲しくて信じられなくて怒りにも似た感情も芽生えました。

 まさか我が子が障害児だなんて夢にも思っていない親に、障害の可能性や療育について話すことはとても難しいことで、ときに憎まれ役になったり、言い方一つで療育から背を向けてしまうこともあります。

 私の場合はたまたま見知らぬ人(ネット上の特別支援学校の教師)からきっかけをもらいましたが、そうでなかったらいつ療育を始める気になれたのか分かりません。

 私が娘の知時障害と発達障害について100%受容したかというと、まだ良くわかりません。今でも「もう嫌!」と思うときもあるし、「なんでこんなことするの!」と腹立つときもあるから、まだまだ理解しきれてない部分もあるのかもしれません。

 でも、少なくとも診断名について嫌悪感は無くなり、誰かに伝えるのも全く動揺しなくなったし、むしろ的確に表現する言葉があって良かったと思います。療育を初めてから、娘の気持ちに前よりは寄り添えるようになったし、娘が過ごしやすい工夫も考えられるようになってきたと思います。療育を始めたことで、たくさんの味方ができ、仲間ができ、連れて行く居場所ができ、娘も私も笑顔が増えて本当に良かったです。

[参考記事]
「発達障害と知的障害の違いって何?両方持つケースもあるの?」

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