この記事は30代の女性に書いていただきました。
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私は34歳の時に発達障害が見つかりました。それまでは、大学を卒業し一般企業に勤めの生活を送ってきましたが、ある日メンタルクリニックの先生から発達障害のADHD(注意欠陥・多動性障害)を言い渡され人生が大きく変わり始めました。
ADHDと診断された経緯
32歳当時の私は全国の首都圏に飲食店舗を展開しているチェーン店の店長として働いていました。現場は常に人手不足の状態で勤務は始発から終電まで、時には終電すら間に合わず店に泊まるなど、休みなど無くひたすら働くという日々を送っていました。しかしその生活も1年が過ぎ2年目に差し掛かった頃、ついに蓄積された疲労はピークに達し倒れてしまったのです。目を覚ますと、まわりの世界が静まりかえっていました。私はストレス性の突発性難聴になり両耳の聴力が平常時の半分以下までになってたのです。
その後、治療を続けながら職場に復帰したものの、飲食店が故にお客様の注文が聞き取れない、上司の指示を聞き逃すなどを繰り返し、現場から営業事務の部署に異動となりました。
現場からデスクワークに異動し、勤務時間も定時に出勤し定時で帰宅という身体的には過度なストレスを与えない配慮の異動だったわけですが、納期には遅れる、書類のケアレスミス、会議の話を聞いていないなど、ことごとくミスを連発します。次第にオフィスでの居心地の悪さに気分が落ち込むようになり、メンタルクリニックに受診したのです。
メンタルクリニックの先生に最近の出来事や今一番感じる辛いことなど、色々と打ち明けました。その時は鬱症状の診断と処方を受け、抗鬱剤を飲みながらの勤務を続けていましたが、何度目かの通院日のとき、「もしかしたらADHDの疑いがあるかもしれません。検査をしてみませんか?」と言われ、そのとき初めて自分の中に発達障害の疑いがあると知ったのです。それからして、心理検査、知能検査、ヒアリングなどを様々な検査を行った結果、発達障害であるADHDの診断を言い渡されました。
ADHDの診断後のカミングアウト
発達障害が発覚しても落ちこんではいられません。毎月の薬代の負担を軽減させるための自立支援制度の申請(1割負担)、精神障害者手帳取得も視野に入れるか否か、両親、職場へのカミングアウト、ADHDという発達障害の症状理解のための勉強、同じ症状を持つ人の講演会やセミナー・・・・・など、とにかく動き回りました。
各種申請は市役所の障害福祉課で申請書をもらい、クリニックの先生に記入してもらい、それをまた持って、市役所に提出。「はい、それでは受け取りました。後日ご自宅に通知が届きますのでそれを持ってまたこちらにお越しください~」と、お役所仕事はドライすぎてすがすがしさも感じますが、とてもスムーズに進みました。
私の場合、一番の葛藤はカミングアウトでした。身体に障害や欠損があるわけではないので、健常者や障害者かは見た目からでは判りません。そもそもこれまで健常者として暮らしてきたのですから、周りには障害のことを隠してこれまでと同じように生きていくことは可能です。
私も当初誰にも言わず一人で抱えていましたが、このままではこれまでと同じ生き辛い環境はそのままなのです。ミスを繰り返し、評価や信用のされない環境は鬱病などの2次障害を生む温床となります。ですので、会社にはきちんと発達障害のADHDであること、そして、この障害の性質、ミスしてしまう可能性のある事柄(マルチタスクは難しいなど)、ミスをしないように取り組んでいる方策(メモを細目にするなど)をお伝えしました。
近年メディアで大人の発達障害を多く取り上げられているのを目にしますが、まだまだ世間には浸透はしていないのが現状だと私は感じています。「よく物忘れする」「整理が苦手」などの性質を言っても 「そんなの誰だってあるじゃん」と一蹴されてしまい、理解してもらえないことも多いです。でも、カミングアウトしなければ「間違いだらけで、お前やる気あるのか」などと言われ、余計追い込まれてしまうので、やはり周りの理解は必要だと感じています。
カミングアウトすることで今まで積み上げてきたものを壊してしまうのではないかという怖さもありました。しかし、本人がしっかりADHDなどの障害を理解し、それを周囲にも分かりやすく説明し、自分の手で生きるための環境整備を行うこと。これが最大の壁であり、最重要なことだと思うのです。これは自分だけの問題ではなく、後に同じ状況で悩んでいる人への助けにもなるのです。会社は一回そういう社員の障害に対する対応を経験することで、次はもっとスムーズに行動に移せるようになります。
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