この記事は30代の女性に書いていただきました。アスペルガー症候群の性質がいかに自身を苦しめるのかが分かると思います。パニック障害やリストカットを経験しているくらいですので、その苦しみは想像を超えています。
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私は、成人になってからアスペルガー症候群と診断を受けています。その私が就職し、そして挫折するまでの経緯をお話しさせていただきます。
薬科系の大学を卒業し、そこそこ大手の会社に就職しました。会社としても、今までで最高と言えるほどの人数の薬剤師が採用されていました。その数30人以上。1クラスできてしまいます。
その会社では、新人はまず研修を受けることになっていました。今から思えば、あの規模の研修室があるのはすごいことだ、と思えるくらい設備が整っていて立派なところでした。研修センターという名で広いテナントを一室使って、調剤の練習を行うスペースと、学校の教室のように机と椅子と教壇があるスペースに分かれていました。
研修中もしっかりと普通の薬剤師の給料が支払われていました。最初にやったのは、スライドによる授業。私は「また授業かよ。せっかく学校卒業したのに」と心の中で思いながらいつものように突っ伏して寝ていました。教育係は二人いて、ひとりは少し年配の人ともうひとりは若めの人。若い人の方が授業のような説明を行っていて、もうひとりはまわりの様子を見回っていました。
真っ先に注意されたのは私。「ここは学校じゃないんだからね。お金もらってるんだからちゃんとしなさい」さすがに私もその言葉には納得して、それでも今度は頬杖ついて聞いてるような聞いてないような感じでボーッとしていました。
そして、案の定というかなんというか、私は学校と同じ状況におかれてしまいました。つまり、また私はひとりぼっちで休憩時間を過ごし、ひとりでお弁当を食べ、ひとりで帰るハメになったのです。アスペルガー症候群の性質からか、人間関係を作るのがまるっきしダメなのです。
みんなが楽しそうにしている中、ひとりだけの私。ここも私の居場所じゃないんだ、と思いました。同じ場所に2~3日通っていれば、なぜかいつの間にか皆笑い合っている人たちだらけ。たまにひとりで本を読んでいる人もいるけれど、それでも1週間もたてば、誰かと話したりするようになる。ずっとひとりで本を読んでいる人だって、帰る時は「じゃあね」と笑顔で誰かに手を振っている。
それなのに私だけはいつもずっとひとりだけ。手を振る相手も、一緒にお昼を食べる相手もいない。どうして皆は同じ場所に何日かいただけなのに仲良くできるのだろう。そしてどうして私だけはそうならないんだろうと、アスペルガー症候群であると分かる前ですので、疑問が渦巻いています。
その時の私には寂しいという概念があまりなく、「どうしていつもこうなるんだろう」という謎だけが頭の中で渦巻いて、泣きそうになる感覚。泣きたくないから、無意識のうちに頭の中で楽しそうに笑っているキャラクターを生み出します。
必死に話しかけるが..
私はその何日か後、必死の思いで、前にいた女性に声をかけました。重たそうな荷物を持っていたので、手伝おうか? みたいな感じのことを言ったのです。今考えても、それが良い声のかけ方だったのか、それともいきなり話したこともない人から、荷物を持とうかというようなことを言われるのは、ちょっと引く感じなのかは分かりません。でもその時はただひとりになりたくなくて必死だったのです。
幸いにもその人は、嬉しそうにありがとうと言ってきました。そして一緒にバスに乗ってその人の家まで荷物を持って行きました。バスに乗っている時、「絵を描くのが好きなの」と言って、「これ、私の妹」と見せられたのですが、私には上手なのかどうなのか分かりませんでした。でもそう感じた瞬間、上手だね、と口から無理矢理言葉を引っ張り出しました。ここで黙ってしまっては、ここまで打ち解けてくれた(?)人がまたいなくなる、と思ったので。
そしてその次の日。お昼の時間、私は彼女のいるグループに近づいていって、震えそうになる言葉を無理矢理叱咤して、声をかけました。
「私も、一緒に食べていい?」
彼女とその仲間たちは、笑顔で迎え入れてくれました。私は嬉しいよりもほっとして、自分の椅子を、よけてくれたスペースにはめ込みました。みんなが笑いあいながら話をしているのを、懸命に同じ顔をして笑っていましたが、私から声を発することはやはりできませんでした。
それから何日かたって、私がずっと気づかないフリをしていた気持ちに、火がついてしまいました。
「ここも私の居場所じゃない。」
なんとか笑顔は保っていましたが、全然楽しくない。理由は簡単でした。化粧はしっかりしていて、頭が良くて、綺麗な声で笑って話すグループに、化粧気もなく頭も悪い、小さな声の私はどう考えても釣り合わないと、このキラキラした空間にはそぐわないと気づいてしまったのです。それに気づいたきっかけは、他愛もないことでした。化粧気もなく、特に美人でもなく、声も大きくない人と話す機会があったからです。その人といるのは少しだけラクでした。
そして私は、今から思えばやってはいけないことをやったのです。お昼の時間に、私は何も言わずに突然キラキラグループではなく、その人ともうひとり、だいぶ年上にしか見えない人のところに椅子を動かしてしました。化粧気のない、顔立ちもいいとは言えない、小さな声で話す人と話をする機会ができてしまったのです。
キラキラグループには何かひとことくらいは言ってからお昼の場所を変えるべきだったのですが、そのような社会性はずっとひとりでいた私の中では育っていなかったのです。当然のように、いつものように私を呼ぶキラキラした声は、ちょっと低いトーンでヒソヒソと何事かを話している声に変わりました。お昼だけ我慢してキラキラグループにいて、それ以外の時間はその二人と過ごす、という考えも浮かびませんでした。
そのあともずっとその二人のところにいたのですが、これも徐々に辛くなってきました。それもそのはずです。化粧気もなく、顔立ちもいいとは言えない、小声で話す人だって定型発達の人です。会話には、やはり加わることはできませんでした。あえて言うなら、年上の人がいたからでしょう。たまに私に話しを振ってくれたりしました。キラキラグループでは、私に発言が求められることはなかったのです。ずっとそうだったために、この二人との時間は唯一楽しいと思える時間でした。
半年たつと私たちは、各薬局に配属されるのですが、その時に試験がありました。おそらく、どこの店舗に配属するかを判断するテストだったのでしょう。テストの内容は、薬の本の薬効から適応症、量によって適応症が変わるものもあり、その本の一部で範囲も長かった記憶があります。留年するわけでもないし、と思いながら私は、いつもの高校生のつもりで勉強は一切しませんでした。すると当然といえば当然なのでしょう。私は最低得点をとってしまったのです。教育係の人に呼び出されて、それを告げられました。
パニック障害
配属された薬局には、私の父親と同じくらいの薬局長がいました。私はその人が怖かったのです。全然怖い人ではないと頭では分かっていたのですが、あの温厚な顔が、急に怒りで歪んで叩かれる、と思うと手足が動かなくなるのです。
虐待、とはちょっと違うかもしれませんが、父はよく叩く人でした。ちょっとしたことで怒り、母に皿を投げつけ、私と妹にボカボカとめちゃくちゃに殴りつけるところを、母親が私たちを抱きしめてかばって、その頃はもう成人男性の腕力になっていた弟が父を制する、というドラマのような状況があったりもしたのです。
父親も発達障害だったのだと思います。学生の頃は友達もいなく、授業内容が分からず、指示も通らない、上司ともめ事があって仕事も長続きしない典型的なアスペルガーでした。勉強は自分でやり、根性でいい成績をとっていたようだとあとになって母親から聞きました。それは素直にすごいと思えることです。大学は、それなりに名前の通ったところに入学しましたが、やはり友達もできずにずっと学校の寮でひとり暮らしていたようです。私と同じで人間関係は全く作れないタイプです。
そんな父親にとって、航空会社に勤めている美人の女性と結婚し、子供が生まれ…、という第二の人生の始まりは、前途洋々としたものであったに違いありません。
けれど母は本当の意味で聡明な人です。父の本質を、すぐに見抜いたようです。でもここで結婚をやめたら世間的にもよくないと思った母は、子供が成人したら離婚する予定で結婚したそうです。だからといって、暴力を振う人だとは、さすがに思わなかったようです。
という訳で、そんなこともあり、私は父親と同年代の男性に恐怖を覚えていました。父親も普段はとても温厚で優しげな顔をしているのですが、何かのスイッチが入ると暴力を振う。
薬局長は、温厚で優しげな人でした。そのため、いつか薬局長は怒りに顔を歪め、叩かれるのではないかととにかく不安でした。掃除をしているときなど様々な瞬間にそれがフラッシュバックし、薬局長も同じではないかと思うと、文字通り指一本動かすことができなくなりました。指ひとつでも動かしたら怒鳴られるかも知れない、という気持ちが行動を制していたのです。
ある日私は、急な動悸を感じました。特に恐怖もなく、ただ患者さんの記録を記録簿につけていた時です。急に動悸がでて、ためしに脈を測ったら120ほどあったのです。息苦しさもありました。そのようなことが何度も続いていたのです。恐怖がないどころか特に動揺もしていない時なので、なおさらその症状は変でした。
幸いにもというべきか、私には知識があったので、それがパニック障害だと気づきました。なので、適当な精神科に入り、お医者さんの見立ても同じパニック症状だったので、抗うつ薬と動悸がした時の頓服の薬が処方されました。あとは不眠もあると伝えたので眠剤も。簡単に書いてはいますが、精神科の敷居は私にとってものすごく高いものでした。近くの本屋さんで本を読み、なんとか気持ちを静め、心を奮い立たせて受診したのです。
その薬のおかげか、パニック障害の症状は治まってきました。ただ頓服の抗不安剤だけでは、恐怖や不安は消えることはありませんでした。パニック障害は発達障害の二次障害として現れることがありますが、私の場合ははっきりとは分かりません。
ここで、私のこの薬局での進退を決める出来事がありました。一緒に働いていた人に、父親の話をしてしまったのです。そして薬局長のことを怖いと思っていることも。そこで初めて「虐待受けてたんだ」と言われました。あれは虐待だったのかどうなのかは今でもよく分かりません。問題だったのは、その人が薬局長にそのことを話してしまったことです。「ごめん。ごめんね。なんか、伝えておいた方がいいと思って。ほんとにごめんね」とフリーズする私にしきりに彼女は謝っていました。私は薬局長にだけは知られたくなかったのです。
そしてその次の日から私は、出勤することをやめました。「辞めるんなら電話くらいしなさい!」と言う母親に、私は頭から布団をかぶって「嫌だ!もう関わりたくない!電話もしたくない!なんにもしたくない!」とひたすら拒絶していました。もしかしたら私は、辞めるタイミングをずっとうかがっていたのではないかと思うのです。
リストカット
仕事もせずに、ずっと1日ごろごろしていたのですが、そのせいか、だんだんまた眠れなくなったのです。仕事をしなくなると、誰とも会わないからきっとひとりぼっち感は消えるのでは?と思っていたのですが、実際に辞めてみると、誰の顔も見えなくて、誰とも連絡を取り合うこともなく、
ああ、私は本当にひとりぼっちなんだ。
と実感し始めたのです。
そして私は生まれて初めて、カミソリを購入しました。カミソリと、包帯とガーゼと紙テープ。近くにあったトイレの中で、私は自分の左手首をカミソリで切りつけました。まったく痛くなくて、私の体は人形なのでは?と思うくらいに本当に何も痛くなくて。だからもっと深く、もっと深く、と痛みを感じるまで切り続けました。もしかしたら見えちゃいけないのかもしれない、白っぽいものが腕の傷跡から少し見えて初めて痛みを感じて満足しました。
私はカミソリをトイレに捨てて、したたり落ちる血液を眺めてから、ガーゼを当てて、テープでガーゼを固定して。それでもすぐにガーゼから血液がにじみ出てきて、今度は少し厚めにガーゼを改めて当てたあと、包帯を巻いたら血液は見えなくなりました。痛みを感じてやっと、自分はやっぱり人間なんだと思いました。
包帯を準備してのリストカットですので、本当に死にたかったわけではないと思いますが分かりません。
母親は、いち早くそのキズに気づきました。「あんたそれどうしたの!?」と泣きそうな顔で、叱るような口調で、すがるような手で私の体を押さえて、言いました。私は何も答えませんでした。だいぶたってから、母親は少し落ち着いたらしく、
「今度病院いつなの?」
「明日」
「今すぐ行ってきなさい」
私に背を向けて、そう言いました。
「うん。行ってくる」
病院は混んでいたのですが、すぐに診察に回してくれました。眠れなくて、と真っ先に伝えました。
「そうだね、全然眠れてない顔してるよ」
眠れてない顔ってどんな顔なんだろうと思いながら、精神科医はそういうのもちゃんと見抜けないと駄目なんだなぁ、と妙に冷静に考えていました。
「他に何かあるかい?」
と訊かれたので、私はリストカットをしてしまいましたと伝えました。
リストカットという言葉を口にすることが、その行為よりもずっと生々しい気がして、言いづらかったけれど、言いました。
「そうかい。あんまりやると腕が可愛そうだよ」
意外な切り返しに微妙に驚きました。私じゃなくて腕なんだ、と。
「なんでやっちゃったんだろうね」
私は、ポツポツと語り始めました。と言っても、どこから言うとか考えずに、頭に浮かんだことをただ言葉にしただけなので、私本人が、何を言っているのか分からなかったくらいなのですが、喋っている間に涙が零れました。
先生は、使いなさい、とボックスティッシュを差し出してきました。不思議な泣き方でした。涙は間違いなく流れているのですが、話す声にしゃくりあげるようなものはなく、普通の声で、表情も変わりなく。ただ涙だけがこぼれているだけでした。普通泣く時は、しゃくりあげながら、腕とか手を目に当てて擦って、喋る声も泣き声だったりするはずなのに。
そして涙が流れていても、止っても、何もなかったかのように私は話し続けました。話していたら、まったく今まで考えたこともなかった言葉が飛び出てきました。「頭が、なんか変なんです。頭の何かが変で、なんか、うまく言えないんですけど、脳のどこかが欠けてるみたいな。何かに障害されてるみたいな」
先生は、うん、うん、と速記でカルテに記入しながら真剣な眼差しで、声を出して頷いていました。すると先生は、思いも寄らぬことを言ってきたのです。
「そうだね。何か障害されてるね。きっと、頭のどこかに小さなキズがあるんだよ」
「…キズ?」
「そう。そのキズのせいで、人とうまく関わるのが上手じゃなかったり、感覚が他の人とちょっと違っていたりすることもあるんだよ。そういう人は、たくさんいるんだよ」
「たくさん?」
「そう。たくさん。あと病名はね、一応うつ病にしておくから。ほんとはうつ病じゃないんだけど、その方が色々としたものの通りがよくなるから」
「ほんとの病名はなんなんですか?」
「うーん。私はね、専門じゃないからなんとも言えないんだけど、」
と言いながら、先生の机の引き出しの中から本を一冊取り出しました。
そこに書かれていたのは、人間関係が下手、片付けがうまくできない、自分を宇宙人だと思っている、耳や目などの五感のどれかが人よりも発達しているか、鈍感かのどちらか、痛みに極端に強い人、逆に極端に弱い人、ひとりでいる時間が欲しい反面で、人との関わり合いを強く求めているが、うまくいかない、とても頑固である。などなど。当てはまることだらけでした。
「なんですか? これ」
「これはね、まだあんまり知られてないし、病気かどうかもよく分からないんだけど、脳のどこかが何かに障害されてることによって、こういう性格の傾向がでるみたいなんだよね。何に障害されてるか、なんてのもまだ分かってないし、私も専門じゃないからね。今度紹介状書くから専門の病院に行っておいで」
発達障害、と本の上に書かれていた言葉をなぜか先生は言うことはありませんでした。帰る時に先生は、「じゃあ日中飲む薬も出そうか。少し元気をつけなきゃいけないからね。寝る前の薬も、少し強いの出すから。強すぎたら減らしてもいいよ」
と言って診察は終わりました。
薬を見ると、ベゲタミン、という名前がありました。とても強い薬の代名詞のようなものです。
マジか。
弱い薬しか出してもらえなかった私が、こんな強い薬を飲むことになるとは、と。白い玉薬が1回2錠で処方になっていたので、効きすぎたら減らしてもいいよ、というのはそのことだったのでしょう。
ともかく、発達障害という言葉を覚えた私は、近くの本屋さんに行き、そのような本が置いてあるコーナーを店員さんに教えてもらって、簡単そうな本を手に取って読みました。
発達障害。アスペルガー症候群。先生が見せてくれた本と同じようなことが書いてありました。そして、生まれつきの脳の障害であり、治るということはないということも書かれていました。治ることがない、ということよりも、そのアスペルガー症候群の傾向を見て私は納得しました。腑に落ちた。まさに私のどこかにストンとその言葉がお腹に綺麗に落ちてきました。自分を見て書いたのではないかと思うくらいの内容でした。こういう人はもっといる。私だけじゃないんだ。
自分は宇宙人じゃなくて、アスペルガー症候群なんだ。
発達障害のアスペルガー症候群だと初めて気づいたのはこの時でしたが、後に正式に診断を受けることになりました。
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