この記事は20代の女性に書いていただきました。聴覚過敏が現れたことで会社に勤めることができなくなった事例です。発達障害の人は聴覚過敏を抱えていることもあります。
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●発達障害で生まれる
幼少時より融通がきかない・落ち着きがない・注意力の散漫など症状が顕著だったため、小学2年の時の家庭訪問で担任の先生が母に診察を勧めました。すぐに診察を受け、発達障害であるアスペルガー症候群とADHDの両方を併発していることが発覚しました。そして後にお話しする聴覚過敏もこの頃から現れるようになりました。表現が難しいのですが、「エコーがかかった音」が大嫌いでした。カラオケで室内に響く音と言ったら分かるでしょうか。
そして、人間関係は小学校・中学校の義務教育の時期は学校やクラスメイトにほとんど馴染めずに過ごしました。いじめもありましたので、学校へ行ったりいかなかったり・・・とにかく、大変孤独で苦しかったと記憶しています。それでもまだ良かったのは、発達障害であることが分かっていたことです。もし原因も分からず過ごしていたらと考えると、想像するだけでとても恐ろしいことです。きっと、「なんて私はダメな人間なんだ」と自分を責めていたと思います。
●自分を認めるまでのプロセス
中学はほとんど不登校の状態でしたが、勉強自体はとても好きだったので内申点の関係ない公立高校を受験し、無事合格。入学して間もなく、クラスメイトたちはどんどん距離を縮めますが、私だけがやはり馴染めません。また辛い3年間かと思われましたが、転機が訪れます。
高校一年の冬、私はその高校の寮で生活することになりました。そこでは昼夜問わずクラスメイトがいて、一人になる時間はほとんどありません。そんな中で暮らしてるうちに、徐々にクラスメイトや教師、寮の職員さんなどに色々な話をするようなりました。周囲の人がだんだん、私という人間を「おもしろ変人キャラ」というふうに位置づけするようになり、一気に打ち解けることができたのです。
それからは非常に楽しい学校生活を送りました。今までは常に誰かに否定されている感覚を持っていたのですが、高校生になり生まれて初めて、ようやく自分という存在を認めることができたのです。
●社会に出てから「普通」に働けるようになるまで
社会に出て、またしても苦悩の日々がやってきます。大人になるにつれて、顕著な症状が落ち着いてきたと自分では思っていましたが周囲の人たちとは、やはり違うのです。
最初に新卒で入った会社(ウエディングプランナー)はわずか2ヶ月で自己退職。その後はアルバイトで食いつないでいましたが、ちょっとしたミスを毎日し、対人関係も良くないことがほとんどで、長く勤めることができません。こんな時に、手に職があればな・・・と考えてはいましたが具体的に動くことはできませんでした。
そんな時ハローワークの勧めで職業訓練校に入所した私は、WEBデザインの勉強を始めました。学校は全行程で6ヶ月と短期間ではありましたが、自信を持ってデザイナーとして働くために死に物狂いで勉強をしました。その甲斐あって、卒業後すぐに広告代理店のデザイナーとして雇われることになりました。
●デザイナーとして、社会人として
無事就職を果たした私は、アシスタントデザイナーとしてスタートを果たしました。そしてここでは、私は発達障害であることを隠しませんでした。幸い職場の人たちはとても理解が深く、紆余曲折あったものの半年後にはクリエイティブディレクターに任命され、順風満帆そのものでした。
今まで社会に出て学べる環境になかった反動で、デザイナーとしても社会人としても思いっきり勉強することができました。また、発達障害という事実をオープンにして就労することで、本当の自分を隠さず自然な状態でいられたように思います。
「きっと、ずっとここで働いていくのだろうなぁ」と思っていた矢先、壁が立ちはだかることになります。それは突然のことでした。
聴覚過敏により退職
クリエイティブディレクターとして4年、様々なプロジェクトに携わることができ、しかもそれが楽しい。その頃には社会人になりたての頃からは想像ができないほど、自分でも信じられないくらいの仕事人間と化していました。発達障害を持っていても、健常者の人たちと一緒にこんなにも充実して働けるとは思ってもみませんでした。
就職して4年を過ぎた頃、赴任していた事業所の業績低下に伴い、コスト削減のためにオフィスの縮小工事が入ることになりました。当初は何とも思わなかったこの縮小工事が、のちに退職に至る原因となりました。
オフィスが縮小して初日の出勤。「おはようございます」という自分の声が、やけに響いて聞こえました。席に着き、同僚と挨拶を交わし、雑談をして、作業の話をする。今まで何気なくしてきた朝のコミュニケーションでしたが、この日は違いました。自分の声も他人の声も、とてつもない大音量に感じるのです。原因はオフィスの縮小により反響音が拡大したことによるものだと分かりましたが、その時は途方に暮れました。
しばらくの間は耳栓をしてみたり、音楽を聴いてみたりしながらできるだけ作業に没頭するようにしていましたが、ある日突然限界がやってきて、その日以降、出社することもできなくなりました。発達障害の症状で音(聴覚過敏)や光(視覚過敏)に過敏であることは自覚していましたが、顕著な症状はしばらくなかったので大変落ち込みました。
あまりに突然の出来事だったため上司や同僚が心配してくれましたが、話し合いをしていくうちに退職することを決めました。この時は周りの人への申し訳ない気持ちと、自責の念とで混乱していたように思います。ただこのままの環境で働き続けると、あれだけ努力して勉強し続けてきたデザインも、入社後に経験させてもらって身につけたライティングも、きっと嫌いになってしまうだろうなというのが退職を決めた一番の理由です。
●自分にできることを全力でやる
現在私は、フリーのデザイナー・ライターとしてお仕事をしています。相変わらず、デザインやライティングに対しての情熱は健在で、退職した会社にも外注先としてお世話になっています。会社員だった頃には考えもしなかった海外移住も視野に入れ、毎日お仕事と向き合っています。
結果として聴覚過敏をきっかけに常々憧れていた「普通の会社員」を続けることはできませんでしたが、フリーでもお客さんあってのお仕事であることには変わりがないので、今は今でとても楽しいです。
発達障害である自分がやるべきことは、企業人として出世することでも、普通の人生に憧れて真似することでもなく、自分ができること、持っている能力を、デザインや文章として全力で出し切ることだと思っています。そしてそれが、多くの人の気持ちの支えや笑顔に繋がればいいなと考えながら、私は今日もパソコンに向かっています。
[参考記事]
「自閉症による聴覚過敏により泣き声が嫌いな娘」
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