はじめに:言葉の力と私たちの責任
言葉は、社会における価値観や態度を映し出す鏡であり、また形成する力を持つものです。中でも「障害者」という言葉は、日本社会において長く使われてきた一方で、その表現がもたらす影響や本人たちの尊厳をめぐって多くの議論が続いています。本記事では、「障害者」という言葉を再考し、表現の自由と個人の尊厳のバランスをどのように保つべきかを探ります。
「障害者」という言葉の成立とその背景
「障害者」という表現は、法律や行政用語として使用されてきました。特に1970年代以降、福祉制度の整備と共に一般化し、行政文書や報道でも標準的に用いられるようになりました。
しかし、この言葉には「障害」という否定的な語感があり、本人の存在を制限的に捉える印象を与えるという指摘がかねてよりあります。「障害」は本来、環境や社会の側にあるバリアを指すべきものであるにもかかわらず、「者」と結びつくことで当人の属性として固定されてしまっているのです。
当事者の声:「呼ばれ方」が心を傷つける
障害のある人々からは、「障害者」と呼ばれること自体に抵抗や痛みを覚えるという声が多く寄せられています。たとえば、「私は障害そのものではないのに、まるで“障害でできている人間”のように感じさせられる」「障害より先に“人”であることを見てほしい」といった意見です。
こうした声は、言葉の選び方がいかに人間の尊厳に直結しているかを物語っています。
代替表現の模索:「障がい者」「チャレンジド」「多様なニーズを持つ人」など
現在、「障害者」という言葉に代わる表現として、「障がい者」「チャレンジド(挑戦する人)」や「多様なニーズを持つ人」など、さまざまな言葉が提案・使用されています。
「障がい者」という表記は、意味を和らげる目的で導入される場面が増えました。しかし、これは単なる表記の置き換えにとどまり、構造的な差別や意識の変革にはつながりにくいという批判もあります。
一方、「チャレンジド」という英語由来の表現は、前向きな印象を与えるという利点があるものの、誰もが「挑戦」として障害を受け入れているとは限らないため、現実との乖離も指摘されています。
表現の自由との衝突:どこまでが許容されるべきか
言葉の置き換えは、自由な表現に対する制限ともなり得ます。ある言葉を不適切だとし、使用を避けるよう求めることが、言論の自由を脅かすと懸念する声もあります。
たとえば、報道や学術の場では、「障害者」という語が法律や統計に基づく客観的な表現であるとして使用されることがあります。また、言葉狩りに陥ることで、かえって議論や問題提起の場が萎縮してしまう可能性もあります。
しかし、自由な表現とは、他者の尊厳や権利を踏みにじっても許されるものではありません。社会における「言葉の自由」は、常に「責任」と表裏一体であるべきです。
メディア・教育現場における役割
メディアは言葉の使い方において大きな影響力を持っています。ニュースやドラマ、バラエティ番組などでの表現が、無意識のうちに偏見やステレオタイプを助長することも少なくありません。
教育現場においても、言葉の意味や背景、配慮の必要性について子どもたちに教える取り組みが求められています。単に「言い換える」だけでなく、「なぜその表現が問題視されるのか」「どうすれば互いに尊重し合えるか」を考える姿勢が重要です。
海外の動向:人権中心のアプローチへ
国際的には、「person with disabilities(障害のある人)」という表現がスタンダードになりつつあります。これは、障害を人の一部ではなく属性の一つと捉え、人間としての存在を前面に出す言い回しです。
また、カナダやオーストラリアなどでは「inclusive language(包括的な言葉づかい)」のガイドラインを政府が発行し、公的機関やメディアにおいて積極的な見直しが行われています。日本においても、こうした潮流に学び、表現と尊厳のバランスを丁寧に見直す必要があるでしょう。
まとめ:誰もが安心して呼び合える社会へ
言葉は社会を形づくるツールであり、その使い方一つで人の尊厳を支えたり、逆に傷つけたりするものです。「障害者」という言葉について再考することは、単に語彙を置き換える作業ではなく、「誰をどう見ているのか」「どんな社会を目指すのか」を見直す重要なきっかけとなります。
表現の自由と尊厳は、対立するものではなく、対話を通じて共存できるはずです。私たち一人ひとりが言葉の力を自覚し、よりよい社会の実現に向けて配慮と理解を深めることが、いま最も求められているのではないでしょうか。
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