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SNSで広がる共感と誤解—発達障害とネットの関係

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はじめに

近年、発達障害に関する情報や当事者の声がSNSを通じて広く発信されるようになった。Twitter(現X)、Instagram、TikTok、YouTubeなどのSNSでは、「発達障害グレーゾーン」「ADHDあるある」「HSPとの違い」といったキーワードが日々トレンド入りするほどだ。これにより、以前は隠されがちだった発達障害という概念が広く認知され、当事者が孤立せずに共感や支援を得られる場も増えてきた。

しかしその一方で、SNSという拡散性の高いツールがもたらす“誤解”や“ラベリング”、“自己診断”といった新たな問題も浮かび上がってきている。本稿では、SNSにおける発達障害の可視化がもたらす光と影に焦点を当て、情報の取扱い方や社会の接し方について考察していく。

1. SNSがもたらした「共感」の広がり

発達障害の当事者にとって、SNSは「自己開示の場」として機能している。診断を受けた体験や日常の困りごと、学校や職場での葛藤などを投稿することで、同じ悩みを抱える人々とのつながりが生まれる。共感コメントや「いいね」の数は、当事者にとっては「自分は一人ではない」と思える安心感につながる。

特に、ADHD(注意欠如・多動症)やASD(自閉スペクトラム症)などの症状は、外見上わかりにくく、周囲の理解を得にくいという特性がある。そのため、SNS上で自分の特性を具体的に表現した「発達障害あるある」は、当事者同士の理解を深め、共感の輪を広げる役割を果たしている。

加えて、これまで発達障害に触れる機会のなかった定型発達者(非当事者)に対しても、SNSは「知るきっかけ」を与えている。特定の投稿がバズることで、「自分の身近にもこういう特性の人がいるかもしれない」という視点が育まれ、社会全体の理解の一助となる場合もある。

2. 情報の氾濫と“ラベル化”のリスク

一方で、SNSにおける発達障害の情報には玉石混交の面がある。専門家の監修がないまま投稿される自己経験や“感覚的な”説明は、時に誤解を生む。たとえば、「忘れっぽい=ADHD」「人の目を見て話せない=ASD」といった単純化された図式が拡散されることで、発達障害が“チェックリスト的”なものとして消費されてしまう危険性がある。

このような現象は、「自己診断ブーム」ともいえる動きを生む。ネット上の情報をもとに「自分は発達障害かもしれない」と考える人が増加し、医療機関への受診に至るケースも少なくない。もちろん、それによって救われる人も多いが、一方で医学的な診断がないまま、自らに“障害”というラベルを貼ってしまい、生きづらさを固定化させてしまう懸念もある。

また、逆に“診断済み”であることをアイデンティティとしてSNS上で発信するあまり、発達障害が「個性の一部」から「SNSでのキャラクター化」へと変質する場合もある。これは「診断マウント」といった競争的な風潮を生むことさえあり、当事者間の分断を引き起こす要因にもなり得る。

3. 当事者性と語りの多様性

SNSにおける語りには、「当事者性」が常に求められる。実際に発達障害と診断された人の言葉は、そのリアリティによって他者の共感を集めやすい。しかしその一方で、発達障害という診断名を得ていない“グレーゾーン”の人々や、家族や支援者の立場にある人の声が埋もれてしまう傾向もある。

発達障害を取り巻く語りには、当事者のものだけでなく、社会との関係性の中で形成される多様な視点があるはずだ。たとえば、親が子どもの発達障害に気づいた経緯や、学校の教員が感じる支援の難しさ、福祉・医療現場の課題なども、重要な声である。SNSがそうした多層的な語りを包含する場として機能するためには、「誰が語ってよいのか」という暗黙の序列を見直す必要がある。

4. バズの論理と“演出される”障害像

SNSには“バズる”ための構造がある。共感を集めやすい表現、感情を動かすストーリー性、強い言葉の選び方がアルゴリズムに好まれ、拡散されやすくなる。この構造の中で、発達障害にまつわる語りもまた、過剰な演出を受けることがある。

例えば、「定型発達者はこう」「発達障害の人はこう」といった二項対立的な言い方は、物語としてはわかりやすいが、実際の人間関係はそれほど単純ではない。極端な言説や断定的な語り口が人気を集める一方で、中間的で複雑な声はかき消されてしまいがちである。

また、「発達障害の自分を理解してくれない社会」という構図が頻繁に提示されることは、当事者の側にも“被害者としての役割”を内面化させる可能性がある。これは支援を求める上では一定の効果を持つが、同時に「自分は変わらなくていい」「努力する必要はない」といった静的な自己認識を強めてしまうリスクもある。

5. メディアリテラシーと“正しい無知”のすすめ

このようなSNSの構造的問題に対処するためには、発信する側にも受け取る側にも「メディアリテラシー」が求められる。すなわち、「誰が、何の立場で、どんな文脈で語っているのか」を読み取る力である。

特に発達障害のように、専門性と個人の体験が密接に関係するテーマでは、「正しさ」よりも「位置」の把握が重要である。自分の知らないことがあることを認識し、「これは一つの見方にすぎない」と相対化できる力は、SNS時代における不可欠なリテラシーといえる。

また、専門家や医療機関といった“制度的知識”へのアクセスも重要だ。SNSはあくまで入口であり、信頼できる情報源へと橋渡しする役割を果たすべきである。医療的な診断や支援の必要性については、専門家の判断に委ねる姿勢を持つことが、誤情報から身を守る手段となる。

おわりに

発達障害とSNSとの関係は、共感によって救われる人を生み出す一方で、誤解によって傷つく人もまた生んでいる。テクノロジーの進化によって、私たちはかつてないほど多くの“声”を聞くことができるようになった。しかし、その声の“意味”をどう受け止め、どうつなげていくかは、私たち一人ひとりの態度にかかっている。

発達障害に関する情報発信が、共感とともに誠実さと配慮を伴うものであるために。私たちは常に、自分の知らなさを自覚し、他者の複雑さに開かれた想像力を持つ必要がある。SNSはそのためのツールにも、落とし穴にもなり得る——その両義性を意識しながら、これからの情報社会を生きていきたい。

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