この記事はアスペルガー症候群の30代の女性に書いていただきました。
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学校にいくのが辛かった小学時代
私は30代の女性でアスペルガー症候群と診断を受けています。子供の頃から、喋れない人でした。何を喋っていいのか分からないのもあったのですが、友達がいなかったために喋る相手もいなかったのです。1日に1回も口を開かないこともザラでした。みんなが楽しく遊んでいる休み時間は地獄のようでした。仲間に入れない自分が大嫌いでした。そのような理由から、小学生時代から学校に行くのがとても辛かった記憶があります。自閉症スペクトラム障害(アスペルガー症候群や自閉症など)の人は会話が苦手と言われていますが、私も例外に漏れず、そうでした。
夜寝る時は、明日地球が爆発しないかな、と祈ったり、朝起きた時には、また1日が始まってしまった、どうすれば学校を休ませてもらえるだろう、とそればかり考えて憂鬱になっていました。
父は学校へ行くのを嫌がる私を無理やり引っ張っていきました。今ならフリースクールなどで学ぶ方法もだいぶ当たり前になってきましたが、当時は昭和60年に入った頃。そのようなものはあまり浸透してなかった上に、父は塾を経営していたためか、学校に行かないなんて許されない、という考えだったのです。
母はなんとなく気づいてくれていたのか、お腹が痛い、とちょっと言ったら「そう?じゃあ学校休む?」と言ってくれました。それでたまに休んだりしてはいましたが、それでもまた次の日はやってきます。イジメられていたわけではないですが、地獄の日々でした。
そんな日々を続けていたら、軽い喘息を持っていた私は、全校朝会になると必ず咳が止まらなくなったり、教室に入ると吐き気がしたりしていました。吐き気がして、保健室に行きたいと伝えて教室から出ると、すっかり吐き気は治まるのです。そして保健室に行く頃にはなんの症状もなく、「吐き気がしてて…。今はもう治ってきたんですけど…」というと、少し保健室で休んでからまた教室に戻る、という形にいつもなるのですが、教室に戻るとまた吐き気がやってくるのです。間違いなく自律神経失調症の症状です。これはアスペルガー症候群の二次障害と言えるかもしれません。
今ならそういう児童に学校側も気を付けるようになってきましたが、当時はそんな私になんのフォローもありませんでした。果ては、気持ちが悪い、と突っ伏していた私に担任の先生が「そんなに具合悪いなら学校に来なきゃいいのに」と言ったりもしていました。心の中で、来たくて来てるんじゃないもん、ととても切なくなりました。今から考えたら、そのような言動は教師として決して許されることではありません。
その一方で、特に成績は問題はありませんでした。問題がなかったために、誰もアスペルガー症候群という障害があることに気づきませんでした。もちろん、当時は発達障害と言う言葉は浸透していませんでしたので、「会話しない、少し変わった子供」として扱われました。
友達との別れ
小学3年生の頃、私は札幌に引っ越してきました。そうすると、1日目からとても仲良くしてくれる子が現れました。後で話を聞くと、「だって話しかけないとなんか死んじゃいそうだったんだもん」と言っていました。それは単純に嬉しかったです。
ただどうしても苦手だったのが、やはり会話です。コミュニケーションの取り方がまったく分からず、相手の話を、うん、うん、と聞いているだけでした。アスペルガー症候群ですから、引っ越して環境が変わったからと言って急に会話が上手くなるわけではありません。
もともとその子はとても喋るのが好きな子で、友達も多く、だからきっと余計に、自分がいないと一人ぼっちになってしまうと思ったのでしょう。けれどだんだんその子も、私に違和感を持つようになりました。毎日一緒に帰って、道の分岐路では、「うちでお茶しない?」と毎日誘ってくれたのですが、とうとう、「なんでいつもあたしだけが誘うの? たまにはそっちから誘ってよ」と言ってきました。ですが、自分から話しかけるということをしてこなかったし、できなかった私には、そんなに仲のいい子でも自分から話しかけて誘いかけるのは難しいことでした。言葉を発するということが、とても難しかったのです。
学校でも状況は変わらず、「だっていつもあたしばっかりそっちに行ってるじゃん。たまには自分からこっちに来なよ」と言ってきました。今の私だったら、間違いなくそこに行っていたのですが、その当時の私には、自分が立って、場所を移動して、という作業がとても困難でした。自分の椅子に、磁石か何かでしっかり張り付けられているように感じていました。
その子は休み時間にはいつも私の机のところに来てくれたのですが、どんどん他の子と喋る機会が増えてきて、次第に、私のところには来なくなりました。
それ以降、また私は休み時間になると誰とも話さずずっと机に突っ伏していました。泣いていた時もありました。が、誰かに何かを伝える能力がなく、そしてそれが育たないままの私には、その涙を誰かに伝える事もできませんでした。両親にすら。
アスペルガー症候群の人の対人関係の難しさを少しは分かっていただけたでしょうか。
成績を気にしない私。勉強をするのはどうして?
勉強に関して、私はまったく授業を理解することができませんでした。とはいえ、小学時代は特に理解できないこともなく、テストも問題ない。もしかしたら、先生が授業で使っていたお手製の授業内容を書いたプリントが大好きで、それを見てなんとなく頭に入ったのかもしれません。
中学に入って初めての通知表は、1と2がだいたい同じくらいにありました。親はとても焦ったそうです。何に焦ったといえば、成績はもちろん、普通なら成績が悪かったら焦って勉強をしようとするはずなのに、私は成績が悪くてもまったく気にしなかったことに対してだったそうです。
特に知能の問題で理解できなかったわけではありません。マンツーマンの授業では普通に覚えることはできるのですが、1対数十人というタイプの授業では駄目なのです。何を聞いて、何をどう覚えたらいいのかがまったく分かりませんでした。さらに勉強してテストで悪い成績をとったとしても何も気にしない。どうしてみんながちゃんと勉強したりするのかがよく分かりませんでした。自閉症スペクトラム障害(アスペルガー症候群や自閉症など)の人は先を見通す力(想像力)が弱いと言いますので、それが影響していたのかもしれません。皆はいい高校に入るという目標を見据えて勉強していたのでしょう。
困った母はお金に執着する私をお金で釣りました。「勉強したら一万円あげる」と。その提案を聞いた私は勉強するフリをするつもりだったのですが、試験の結果を見たら「やっぱりあげない」と言われると思い、「テスト期間が終わったら、結果がでないうちに一万円欲しい」と言い、そのようになりました。結局、結果はきちんと母の思惑通りに出てしまいましたが…。ですので、勉強ができなかった訳ではなく、やればできたのです。
発達の遅れが目立ってきた中学~高校時代
私は、いわゆる「指示が通らない」タイプでした。中学生の時の被服の時間では、先生が少し説明するとおのおの楽しそうに作っていくのですが、私はまず、第一段階として何をどうしたらいいのか分からず、先生に「どうしたらいいですか?」とよく訊きに行っていました。先生はやることをいくつか私に指示してくれますが、それをやったら「次はどうしたらいいですか?」とまた訊きに行く。それの繰り返しで、最後まで先生に訊きながらでないと作れませんでした。おそらくマルチタスクが苦手なアスペルガー症候群の性質により、あれこれと順番を付けて仕上げていくことができなかったのだと思います。
高校に入ってからも同じでした。体育のバスケの授業のときはバスケのルールが分からず、ただ突っ立っていました。みんなに、「動きなよ」と言われたのですが、先生が最初にしたルール説明が理解できなかったのです。「私は分からない。分からないことを理解して欲しい。なんとかして欲しい。誰かちゃんと教えて欲しい。」と思ったのを覚えています。
日常でもこんなことばかりですので、「ダレカタスケテ。」小学生、中学生、高校生はそればかり考えていました。
文化祭の時も、みんなが自分で考えて行動して何かを作ったりしていたのですが、私にはそれができず、「何をしたらいいの?」と誰かに訊くこともできず、何もしない自分がただただ惨めでした。想像力を発揮して何かをする力が決定的に不足しているのです。ちなみに文化祭当日は空いている教室で本を読み、帰る時に点呼をとらないことが分かった2日目は、学校から脱走して家に帰りました。
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